若い死別 心の動き

それぞれの時期の死別後の心の動きをまとめてみました。多くのケースと接してきて、最大公約数としてまとめています。当てはまらない例外も多くあると思います。自分はそうじゃないと思う人もたくさんいるでしょう。人それぞれの望ましい方向性があるでしょう。ただ、危険な方向性はある程度、共通しているように感じてはいます。もっとも、このセクションも参考までにというところにとどめてください。答えではないです。

死別直後、最初の心の動き


直後には、人それぞれの激しい反応が起きたり、逆に呆然とするあまりハイになり何も感じなくなったり、酒や仕事や育児に気を逸らすという行動に出たりとするようです。

 

様々な人を見て、この時期に思うのは、とにかく心身を休ませるよう心がけることなんだろうなというところです。それには、気が済むまで泣いていたり、気がすむまで寝ていたりすることかなと感じます。心の赴くままというところでもあるでしょう。直後であれば、酒や仕事や育児に没頭して気をそらすというのもいいのかもしれません。ただ、あまり気をそらしすぎるのも、結局悲しみを隠して押しつぶすということにつながり、

それはそれで危険なことが後々出てくることがあまりに多い。悲しむべき時に悲しんでいない、誤魔化すという作業は普段理性の強い人がやりがちです。男性も多いです。素直に悲しいところを人に見せられない癖がついているのでしょう。でも、それですごく回り道をしてしまった人はとても多い。多数派のような気さえしています。そしてそういう人に共通するのが、逆にあまり整理されずに長年を過ごすということが多い。特に男性は、すぐに再婚したりするものの、亡き人と重ね合わせすぎて新しい人に多大な心労をかけるというパターンも散見します。自分がどんなに強く整理できる人間であったとしても、亡くなった人を愛していたなら、一年内の恋愛スタートは危険です。むしろ辛く複雑になることさえある。私の知ってる範囲ではほぼ例外がない。

 

直後には悲しみを吐き出し、心身を休ませ、栄養を取りというところなんだろうなと、結論は出ませんが多くの人からはそう感じられます。

死別したことを直後から楽に受け止められるほど甘いものではないし、受け止められたとしたら生前の関係が何か薄いものだったのかもしれません。または麻痺している人も直後は多いですね。

 

この素直な悲しみの吐き出しは、一般にはなかなか受け入れられないでしょう。家族であってもその受け入れができる経験と洞察力が豊富なところは多くはないです。周囲は前を向けに取り憑かれてることが多いので。伴侶死別のいろんな人に接してきて、前を向けという空虚な中身のない言葉は、根絶して欲しいなとさえ思います。言ってる方の浅い価値観の不適切な場面での押し付けに私は、今は怒りさえ覚えます。3・11から学んで欲しいです。

同じような経験をした人、もちろん若い伴侶死別は少ないので、早い死別を経験した人やどこまでも単に受け入れてくれる人を選んで吐き出しましょう。

もっとも、ほんの少しだけこちら側も、余裕を持って言葉を流すことができると楽になります。孤立しないコツかもしれません。励ましなんて、ほとんどの人が経験したことのない若い世代の伴侶や恋人死別においては無理な話なのです。わかるはずはないけれど、一生懸命にサポートしようとしてることだけは受け止めてあげられると人の言葉に傷つかず、少なくとも友達や周囲を無用に恨まずにすみます。

 

親友というのはとても難しい位置にいます。若ければ若いほど、受け止めきれず通り一遍の励ましを言ってしまい、こちらが傷つくということもとても多い。逆に難しいことだからと、死別した側が友人に合わせるのも、それはそれで結局悲しみの吐き出しになっておらず、徐々にマグマが溜まっていく。

 

リアルにいなければ、ネットの死別者が集まるようなところで構いません。むしろ強がる男性はそちらの方が

吐き出しやすいかもしれない。自助グループも玉石混交だったり合う合わないもありますが、良いところが見つけられれば、一生の支えにもなりえます。

 

 


死別後 数年経過後の心の動き

直後の痛みが少し緩和して、苦しさが振り返ると少しだけ変わってくることがある。早い人で半年、だいたい数年単位で変化してくる。

もちろん、人それぞれだし、直後に育児や仕事や病気などで十分に心を癒すことができない場合は、複雑な状態になっていることは珍しくはないけれど。

痛みが緩和すると、次に多く感じられるのは、寂しさだったりする。

不在をリアルに感じ始めるからかもしれない。それまでは、必死に痛みに耐えたり、何が何だか、現実を受け入れることができなかったりして、不在をしばらくは心から締め出していたりするからではと感じる。

 

現実を少しずつ受け入れていると、不在が今度は現実のものとして立ち上がってくる。

不在によって将来の不安も出てくる。日々の寂しさも出てくる。虚しさも出てくる。

やる気がなくなってきたりもする。

 

それなのに、この時期になると、周囲の人は、死別に関しては、ほぼ過去のことになっている。

いつまで言ってんのとか、引きずってるんだとか、声には出さなくともそういう態度で傷つけられている

人はこの時期とても多い。

そろそろ次の人をなんて親族や先輩に言われ始めるのもこのころだったりする。

そんな余裕があれば、それはそれでいいけれど、大半の人はその余裕も受け入れる心の準備もない。

未来を歩けみたいな言葉については、聞き流す余裕があればいいけれど、真面目な人はどうしても

そういう言葉を自分自身が自分にかけてしまって、力強く歩けない自分を責めて苦しんだり、自己嫌悪になったりする。

 

でも、こういう現実に直面することを感じるだけで、あの頃からはずっと進歩している。

この現実との折り合い、寂しさとの折り合いや対処は、この後もずっと続くかもしれない。

どうしても、この対峙は避けられないかもしれない。でも、できる範囲で

少しずつやればいい。できなきゃ、また泣いてればいい。気長に、歩んでいくしかないと思う。

 

そう歩んでいくうちに、また少しずつ、ほんのわずかずつだけれど景色は変わっていく。

自分も周りの同じ経験をした仲間もゆっくりと変化していった。