周囲に大事な人を亡くして苦しんでいる場合、どうやって支えればいいのか、多くの人が疑問に思いつつも、自分なりの優しさで行動する。ところが、その優しさがあっても、最愛の人を亡くした時に周囲の人にかけられた言葉や反応で傷つけられたり苦しめられたりする事例がとても多い。
そして、そういう敏感な時期なので、ずっと心の奥にわだかまりとして残ってしまい、親友関係や親子関係が破壊される例も少なくありません。
苦しみ方は人それぞれですし、支える人、支えたい人、その関係性もそれぞれなので、答えはないでしょうが、多くの傷ついた例を知っているので、そこから少し参考にしてみてもらえればと思います。
周囲の支えたい人は傷つけるつもりはないのは当然ですが、どうしても心の奥までは想像できずに、相手を傷つけてしまうことは多いようです。
葬儀や通夜といった直後には、周囲の人はあまり言葉はないほうがよいです。理解してるようなことを言っても通じないし、反感を買うこともあります。どんなにその人を思って言っても。絶望の闇にいる人間は自己中心的で余裕がないことが多く、言葉はほとんど何も届かないことが多いみたいです。反感を感じた話はよく聞きます。
支える人が言いがちで、傷つけたり、追い込んでしまったりする言葉の例をあげます。「そんなに悲しむと・・・」「亡くなった人の分も」「意外と元気そう」「何か意味があると思って」「神は乗り越えられない試練を与えない」「もうそろそろ」「前を向いて」これらは、その後何年経過しても言うべきではないのだろう。死別者は傷ついたと言う人が多い。支える気持ちだけを受け取るというような器用さが死別者の側にもあればいいのですが、余裕がないのでなかなかうまくいかないようです。周囲から見て、前向きであってほしいと切に願うのは当然ですが、本人のプレッシャーになることがほとんどですし。毎日毎日を過ごすことだけでも莫大なエネルギーをつかって生きていることなので、それを前向きと評価してあげてください。うつむいていても、心の中は前向きに闘っていることは少なくないのです。実際、これほど生きる事に闘っていた時期は、自分はその他に経験がない。
基本の心持ちとしては、「あなたの気持ちはわかってあげられないけれど、 いつでも話を聞いてあげられるという気持ち」で、そばにいながら、そっと見守ることが大事だと思います。相手が急に泣いても、だまっても構わず、話をし始めたら聞いてあげる。道徳的、倫理的には間違ったことを言ってもきつく訂正せず、そう思うんだねと聞いてあげる。そして、相手が望むだけ心を休ませてあげることです。客観的にみて、そろそろ前向きのほうがよいのにと思っても、休ませてください。人により、その休みが必要な長さは異なります。想像を超えて苦しんでいると思っていてください。年単位のお話です。特に、同じ経験をしていない人は、叱咤激励や方向性を示すのは厳禁です。重傷患者に、医者でもないのに、さあ動きなさい、歩きなさいといっているようなものです。
このように支える作業は繊細でとても難しい配慮が必要となってきます。普通の人はなかなかできないと思います。
【家族や親による支え方】
若年性の伴侶死別において、まだまだご両親もお若く健在であることが通常です。若年性の死別者を支えるにはご両親をはじめとした家族がとても大きな役割を果たすことが期待されます。しかし、どんなに人生経験を積んでいても、ほとんどのご家族やご両親は不条理とも言えるような若い最愛の人を失う経験をしていないでしょう。親という導く立場と、その未経験のギャップが時に、とてつもなく子供である死別者を苦しめることがあります。有害だなと感想をもつ親も多いです。もちろん、有害なことをしようとは思ってもみないでしょうが。家族は、特に親は、子供にその先少しでも明るい未来をと思い、悲しみに打ちひしがれていると、前を向けとか、いつまでもとか、そういう叱咤をしてしまいがちである。少なくとも3、4年は黙って見守る覚悟でいてください。その先でも、叱咤激励や道を期待するような発言は控えた方がいいでしょう。本人が思わない限り、どうしようもないし、深い親子の溝になります。
そういうアドバイスで、よし立ち直るぞと立ち直れるほど甘いものでは無い。
他のところでもなんども書いていますが、本人は面会謝絶の重傷を負っていると思ってください。
痛みと苦痛でもがき、骨は砕け、内臓は破裂しているような心の状態です。
それが何年も続きます。そういう状態の時にいきなりリハビリをしろ、前を向けとは言わないでしょう。
何より痛みを取ること、本人がやる気になったら優しくリハビリをサポートすることでしょう。
明るい未来を願うなら、なおさら悲しんでいることを否定せず、包んで、安らげる場所を作ってあげて欲しい。それが、むしろ回復に近い道になる。親や家族の深い包み込みと愛情こそが、未来を強く生きようと本人が思うようになる大事な要素だと思います。周囲では、しばらくすると、他人事なので、そろそろ元気になったのだろうと勘違いし前向きに生きろなどと何様かわからない友人や同僚や先輩の無言の圧力や有言の罵声に近い叱咤激励が渦巻きます。そこにも、死別者は苦しみ、からに閉じこもりがちです。そういうところから逃げられる場所として家族が機能していれば、早く、より後遺症が少なく回復するだろうなと思う例はたくさんあります。
泣きたい時にはいつまでも気がすむまで泣かせる。
何ヶ月でもふさぎ込ませてあげる。自ら話し始めたらいつまでも、思い出話を楽しそうに聞いてあげる。
相手の遺品や相手の家族や相手との思い出の場所を、断ち切ったりすることをしない。
死にたいとか、辛いとかいう言葉を否定しない。そうか、それくらい辛いんだねと共感してあげる。
どんなひどい言葉も、受け止めて、そう言いたくなるくらい辛いんだねと共感してあげる。
家族が重石を与えたり、複雑化させる例はあまりにも多い、そしてそれは大半が子供に叱咤激励をしたり、若年の伴侶死別の苦しみを理解できないところから来ているのである。それまで仲が良好だった親子関係が崩れることも少なくはない。子供にとって、何より大事なものを若くして失ったのだから、心が過敏と言えるくらいに心ない言葉や行動に反応してしまう。どんなに悪気は家族側になくても。
家族は若年性の死別者、特に20代、30代前半くらいであると、唯一の逃げ場所かもしれない。そういう場所をいつまでも、本人がもういいと思うまで黙って作ってあげていて欲しい。
以前、20代の女性が彼を亡くして、その彼の親と死別後しばらく交流し、彼の遺品に囲まれて日々の生活を送り、悲しみを癒している最中に、彼女の親が、その暮らしぶりを「ぞっとする」と表現した例がありました。私はその彼女の親にぞっとしました。
まだ1年も経過していない時でした。彼女にとってどれだけ、彼の親と悲しみを共有することや、彼の物が癒しになっていたかと思うと、心が苦しくなります。そういうものを親が引き剥がすことは逆効果です。ゆっくりと溶かすしか無いのです。そのために、しばらくは悲しみに浸らせて、癒しを与えることが何より大事なのです。どれくらい時間がかかるかは人それぞれです。また何をもって回復というか答えもありません。大きな影響は一生抱えるでしょう。表面上は平気な顔をしていることもあります、心の中では死別時からあまり動いていない場合でも。
【友人による支え方】
友人関係で言えば、親友でなければ、こちらからコンタクトを取ることは半年くらいは控えていてよいと思います。気にはなると思いますが、その気になるざわつく心を落ち着かせるためだけのような連絡は感じとってしまいますので、やめたほうがよいです。自分の心が安心することを目的としていないかは、コンタクト前に厳しく自己審査してください。
半年くらいして、まずは線香をあげてもらえるのはとてもうれしいです。できれば、そっとひとりで行ったほうがいいと思います。お花もうれしいですね。
亡くなった人の尊厳を大事にしてもらうのがいちばんです。
伴侶と一緒に行ったり、子供を連れて行ったりというだけで傷ついている例もたくさんあります。一人でというのが無難だと思います。行く人には何気ないことでしょうが、余裕のない死別者は、わざと傷つけに来てると曲解してしまい友人関係が壊れている例はたくさんあります。当たり前の行動が通じない精神状況だったりするので、気づかないうちに恨まれたりすることは多いですよ。
親友であれば、直後であっても、メール等で「理解はしてあげられないけど、平日の夜はごはんにつきあえるよ、ごはんを食べなくても、泣いていても、思い出話をしていても、黙っていてもよいから、ただその時間はそばにいることだけはできるから、そのときはメールして」と寄り添える態度を示し、サポートのしかたを具体的に示してもらうのが助かると思います。
決して、叱咤激励しない、吐き出しを受け入れてくれる、泣き喚きを受け入れてくれるという包みこむ態度を具体的に示してくれると安心して頼れます。
平日の夜のごはんといった風に限定してくれるのも、これくらいなら頼っても迷惑かけないかなという安心感も出て頼りやすいです。
そして、実際に会ったら、相手の言うことや態度は絶対否定しないで受け入れることです。
「死にたい」という言葉さえも。死にたいくらい辛いんだなと翻訳して理解してあげてください。
この言葉に多くの人は命を説きます、大体の人は叱咤します。そういうことは逆効果です。
命なんてその人が一番知っていることです。叱咤はなんのプラス効果も生みません。言ってる方の価値観を示すことの満足感でしかない。
死にたいくらい辛い状況を脱するにはどうするか、何ができるかの方に頭と心を使ってください。母親なら娘を抱きしめることでしょう。父親と息子なら、息子の肩にそっと手を置くだけでしょう。そういうことで支えているぞと、包んでいるぞという力を示してあげてください。男性友人なら「何も言えないけどな、それ食え栄養つけろ」と料理の皿を差し出すことでしょう。女性友人なら「そうかあ、そうかあ」と一緒に泣くことでしょう。それだけでもいいです。
多くの人は「何かあったら連絡して」と言ってくれますが、漠然として、頼りづらいし、そもそも今こそ何かあっている緊急事態が続いてる状況ですし。
愛する人を亡くしたばかりの人の心はささくれだっています。自己中になっています。
それを最大限配慮してあげて、思うとおりにさせてあげてください。
そばにいることを感じさせながら、そっと、見守ることがいちばんです。 無言で力を与える
しかないです。
サポートに自信がない人と自信がありすぎる人は、しばらくは遠くから見守ることだと思います。
死別した人が次の恋愛に進む場合
死別者を愛する側、愛される死別者の側、どちらの立場でも、心の整理や相手への理解がかなり必要になってくるように思います。
いろんなケースを見て整理した死別者恋愛特有の一般論をここでは、書いてみます。
具体的ケースによって、様々異なりますが、敢えてある程度共通することを書きます。
参考意見であって正解ではないです。参考程度に見てください。
1・死別した人を愛するには
この場合、特に女性は、亡くなった人が相手の中に存在する事に悩むことがあります。
あまりよく知らない周囲の人は、聞きかじった言葉を使って安直に、「亡くなった人には勝てない」と言うことがあります。
でも、死別者の心がある程度整理されれば、亡くなった人に対する死別者の想いは
少し次元が違うところにあります。引きずるという普通の感覚では
ないところにあります。
ただし、死別者が心を整理できておらず、
新しい人を亡き人の代替のように扱う場合は、後で述べるように、
どんな奇麗事を言っても、亡くなった人には勝てないと感想を
持たざるを得ないケースもかなりあります。
嫉妬やモヤモヤは自然な感情だと思います。
ただ、心を整理していきましょう。亡くなった人の存在を消してくれと
願うことは、不可能です。仮に死別者が言葉で忘れたといっても。
当時の恋愛が冷えきっていたものでないかぎり。
あの衝撃を心から消し去るのは不可能であるし、
そもそも復活して元気になる過程において、心の中に
きちんと位置付ける方がずっと健全な回復と明るい未来を
歩くことができるだろう。そこを消してと懇願して、
お互いになかったことのように押しつぶしたところで、
そこには虚構しかない。相手は隠しているだけだし、
隠している存在は歪んで残るだけであろう。
心が整理された人にとっては、
亡くなった人と今の人とは、次元も違い、仏のような存在になっています。
後で述べるようにそうでない人や整理がついていない人もいますが。
心が整理された人にとって、亡くなった人を大事にすることと、今の人を愛することは矛盾しません。
なので、そういう人を相手にする時は、どうか元カノとか元妻といった次元で亡くなった人をとらえないでください。
死別は想像を絶する壮絶な経験と辛さです。
おそらく、その相手も、壮絶な時間を過ごしてきて、やっと次へと進もうと
しているところだと思います。本人もすごくジレンマや苦しみを感じてることも
多いです。それゆえ、押しかくしたりもするでしょう。
亡くなった人、特に若くしてなくなった人は、どれだけ生きたかっで
あろう、どれだけ彼を幸せにしたかっただろう。そういう亡くなった人の想いも
少し想像してあげてください。
今の人が、そういう亡くなった人に敬意をもてるまじめな人であり、
その人が壮絶な経験をした以上、悲しみと亡くなった人への敬意は消えません。
その人の人格の一部になっています。
これを消したくないというのではなくても、消えないのです。
両親を亡くした人が、両親の存在が消えないのと同じです。
その人を愛するということは、その部分にも愛情を持たなければなかなかうまくいかない
のだろうと多くのケースで感じます。
だからこそ、「彼女の事を忘れて私だけを見て」というのは不可能を求めることです。
彼の人格の一部なのですから。
その気持ちであるかぎり、なかなかうまくいきません。そういう例がとても多いです。
もちろん、とても難しいことです。それゆえに、相手をあきらめても
しょうがない事だと思います。
でも、逆にそういう亡くなった人へ敬意を持つような愛情の持ち主だからこそ、
その人を愛するようになったのではないかとも思います。
彼の人格の一部を愛することの重要なひとつのポイントは、亡くなった人の
尊厳をあなたも大事にするということです。
亡くなった人の無念と命あったことへの敬意は持つべきです。
それがなければ、とても難しいこの先になるでしょう。
うまくいっている例の多くは、相手が忘れても、自分はお墓参りをしたり、
仏壇を大切にしたりするような心がけを持っていたりします。
うまくいかない例の多くは、一緒のお墓なんてかんべんというような
姿勢であることも多いです。相手が命日を大切にする行為をうとましく思ったりするタイプもそうでしょう。お墓、仏壇、命日、これは特に亡くなった人のものですので、ここに抵抗がある場合はかなり苦労するでしょう。想い出話、写真、想い出の品というものとは少しレベルが違う話かもしれません。
2 相手に対して求めてよいこと・死別した人が整理すべき事
1で述べたようにとても、愛する側は難しいことを強いられます。
経験している人も少なく、悩みを理解してくれる人も少ないでしょう。
そういう難しい、困難な道を歩んでくれる人にたいして、死別者は
最大限の配慮と愛を注ぐべきですね。
彼らを愛する人は、新しい人を代替に扱うような行為は絶対許してはいけません。
代替でなくとも、無意味に嫉妬心や不快感を招く行為もやめてもらうべきです。
亡くなった人がやっていた事を要求する。
亡くなっていた人の洋服を着せたり、想い出のものを使わせようとする。
亡くなった人と比較して発言する。
聞いてもいないのに、亡くなった人の自慢をする。
聞いてもいないのに、亡くなった人の想い出話をする。
写真を目の届くところに置いたりしている(亡き人のお子様が
未成年の場合は別)。
一緒に過ごす場所で目の届くところへ遺品がある(亡き人のお子様が未成年の
場合は別)。
これらをやめてほしいという事は新しい人は当然言ってよいです。
セクハラ同様、不快と感じる事は感じる側にできるかぎり合わせるべきです。
これらをやってしまう間は、未来へ進む相手の心の整理がまだまだという
場合が多いです。
本来は次に進むべき心の状態でなかったり、もともと、次の
恋愛をしてはいけない性格だったりします。
これらをやっている人と付き合っていくのは、かなり難しいし、
先で必ずといっていいくらい問題が噴出します。
想いは想像を越えた深い傷跡なので消えるものではない、しかも供養という面も
ある。
でも、だからといって、上記のような行為は供養とは関係なく、想いは
新しい人に聞かれてもないのに披瀝するものでもないのです。
こういう行為を執拗に続ける人とは別れましょうと
私は言うようにしています。私は死別しているので、
本当はそういう人を応援したいのですが。
新しい人が複雑な心を整理してのぞむ以上、死別した人も、
きちんと整理をしのながらのぞむのがうまくいくようです。
ただ、どの点まで互いに譲り合うか、これはきちんと話しあった方がいい。
双方の気持ちを互いに理解しつつ。
死別者が意味ないただの物だと言うように相手の気持ちを聞かないのも違うし、
新しい人が私が嫌なんだから捨ててよというように相手の気持ちを聞かないのも違う。
3 そういう2人であれば、死別は逆にうまく作用するように思います。
相手は命と愛情の大切さを身をもって知っています。
そして、それを尊重する新しい人であれば、結びつきは
深く、愛情深い2人の付き合いになると思います。
4死別から再婚・恋愛への期間について
多くの例から、次に進むのが危険というような期間があるように感じられます。
例外もあるし、人それぞれではあります。ケースも様々ですし。
ただし、おおむね、死別後1年以内というスタートは、以前が冷めた関係で
無い限り、ほとんどの場合問題が噴出してきます。
私は、今のところ例外を見た事がありません。いつまでも問題が残ります。
そのほとんどの理由が、再婚や恋愛以前に、死別者サイドが死別を
心の中で整理できていないというところにあります。
ほとんどの人の場合、愛する人が若くして亡くなったときに、
1年程度では、心が混乱しており、どこかにすがりたいという想いが
自分でもわからないくらいにあり、必死であるということが多いのです。
こういう人の多くが、口では、もうふっきれた、整理できてると言います。
本人も思い込んでいたりします。
死別の整理は、ある程度、休みつつ、癒しつつ、バランスよく苦しみと辛さと向き合うしか
ないと思うのですが、そこを誰かにすがって逃げてしまうと、
(逃げる事自体は責められない、それくらいの苦しみなので)
時間がたつと心が複雑化してるので整理しづらくなることが
多いと感じます。
死別を整理しづらくなるので、1年以内のスタートは、付き合ってからも、
様々でてくる問題を2人で解決しづらくなるように思います。
もし、死別者との付き合いを始める段階で悩む場合には、1年以内は避けて、
遠くから見守るほうがいいように思います。
理想的には少なくとも3年は待つほうが、逆に近道だとさえ感じます。
死別者は、できれば、人を巻き込む前に自分を深く見つめ直すべきだと
思います。逃げたい気持ちは痛いほど私も理解できるし、その頃、目の前に
相手が現れたら、私も逃げないそしてすがらない自信はなかったですが。